アーポンの夜68

 クラスメイトたちは仲の良い友達同士でさっさとグループを作ってしまうと、公園の中央に聳える巨大な噴水と同心円状に配置されたコンクリート製の長椅子や、飲食用に置かれた日除け付きの木製テーブルの上など、思い思いの場所に各自持参した弁当を広げて、昼食をとった。
 こうして仲の良い友達と弁当を囲んで、昼食をとるあいださえも自由に過ごせることは、教室の自分の席で給食を食べるよりも遥かに楽しく、児童たちの表情にも、普段の授業を抜け出してきたという、非日常的な興奮と喜びが満ちていた。課外授業といっても、児童たちにとっては、遠足と似たようなものだった。
 この公園へと向かうバスの中では、女性バスガイドによって、午前中に見学に訪れた漬け物工場についての「復習問題」なるものが出されたが、これも遠足のときに行われたクイズ大会と同じように皆、競って積極的に答えを出し合い、 堅苦しい雰囲気は一切感じられないものだった。
 実際、教室で行われる授業であれば、正しい回答が得られるまで、指名した児童を着席させない、という厳しい一面を持った担任教師も、バス車内での「復習問題」については、若いバスガイドに一任したきり、終始笑顔で頷いてみせるだけだった。
 そんな担任の表情を目にした児童たちの方は、それまでにも増して、「今日は特別なのだ。」と、強く意識するようになった。すると、午前中には確かに残っていたはずの、気持ちの張りは徐々に緩んでゆき、次第に誰もが皆、「今日は目一杯、自由に過ごさなくては損をする。」とさえ思うようになっていた。
 しかし、そんな浮足立つクラスメイトたちにも、朝から気に掛かることがひとつだけあった。その気掛りというのが、年が明けた今学期の初めに転校してきた少年のことだった。
 転校してきたばかりで親しい友人もいない彼は、午前中に見学した漬け物工場でも、当然誰とも会話を交わすことなく、一番後ろをひとりで歩いていた。鮮やかな黄色や赤に染められて出てきた、瑞々しい漬け物たちが、機械によって袋詰めされる場面では、その素早い各部の動作と正確さに、児童たちの誰もが思わず歓声を上げたものだったが、彼だけはひとり、その工程には目もくれず、手元の小さなノートに鉛筆で何かを書き留めていた。
 それでも、そんな彼の表情が、退屈そうでも、ふて腐れている風でもなく、どちらかといえば穏やかな笑顔を浮かべているようにさえ見えたことから、クラスメイトたちも過剰に彼のことを気にする必要はないのだと、安心を取り戻しつつあった。少数ではあったが、過剰に意識し過ぎる自分に気が付き、人知れず頬を赤らめる女子児童もいた。後れ馳せながらではあるものの、大半のクラスメイトたちのあいだでは、精神的な意味合いでの転校生の受け入れ準備が整いつつあった。
 しかし、そういった学級全体の傾向に反するように、コソコソと転校生について囁き合う児童が少数ではあるが、存在したのも確かだった。もはや少数派になってしまった、受け入れ準備のできていない児童たちだ。「復習問題」の行われる車内で彼らは、バスガイドや担任教師の目を盗んではいつまでも話していた。
 「あいつさ、いっつもあのノート持ち歩いてるぜ。日記帳か?気持ち悪りいよな。」
 「日記なんか普通つけないよ。だいたい日記なんて家で書くもんじゃないの?」
 「薄ら笑い浮かべて書いてたよな。気味悪いよ。」
 「でも、優しそうだよいつも。頭良さそうだし、工場の人の話を書いてたんじゃないかな。」
 「そうそう、昨日も遅くまで図書館で本読んでたし、勉強が好きなんだな。」
 「なんだ真面目な奴か。つまんねえ奴だよ。」
 「なんかね、絵だったよ。」
 「絵?」
 「うん。僕ちょっと覗いちゃった。絵描いてた。」
 「なんだよ絵って?漬け物の絵描いて何が楽しいんだ?」
 「漬け物じゃないよ。犬の絵だった。上手だった。まゆ毛の繋がった犬。」
 「まゆ毛の繋がった犬って、ゴン太?」
 「たぶんゴン太だよ。似てたもん。」
 「転校生の家って何処なの?」
 「知らないよ。喋ったことないもん。」
 「あいつ帰るの遅いんだよ。いつも図書館にいるぜ。」
 「よく知ってるね。ひょっとして友達になりたいんじゃない?」
 「そんなはずないだろ馬鹿。あんな女みたいな奴には興味ないね。」
 「女の子みたいな顔してるよね。優しそうな顔してる。」
 「なんだお前、じゃあ友達になってこいよ。弁当一緒に食えよな、あいつとおかず交換したっていいんだぜ?」

 転校生の受け入れ体勢が整った者、未だに整っていない者(日和見派を含む)、完全な中庸派、厳しい一面を持ってはいるが、児童たちが課外授業に積極的に参加できるのならば、この日だけは児童たちに対してあれこれ口うるさくは言うまい、と決心して課外授業に臨んだ担任教師、その他(無口なうえ威圧感も存在感もない白髪頭の教頭、若い女性バスガイド、運転手)を乗せたバスはやがて、都心の高層ビルの合い間を縫って、地下駐車場へと辿り着いた。
 バスから児童たちがひとり残らず降車したことを確認したバスガイドが静かに目配せを送り、労いを込めた笑顔でそっと頷いてみせると、運転をしているあいだは寡黙で、こめかみにうっすらと浮かんだ青く細い血管から、神経質な人物とも想像されがちだが実は気のいい運転手も、これでやっとひと息つける、という安心しきった表情で帽子のつばに手をやり、くいっ、と露出させた綺麗な富士額を、手袋を着けたままの手のひらで拭いながら、安堵の表情で頷き返した。

 児童たちは公園に到着するなり、好きな場所で弁当を食べるように、と担任教師から言い渡された。バスの中で転校生についてあれこれ囁き合っていた男子児童たちは、さっさと彼から距離を置くようにその場から離れ、彼の身の振り方を遠巻きに窺っていた。
 転校生がひとり寂しく弁当を広げる、哀れな場面を期待していたのだ。しかしそれと同時に、その姿の痛々しさに、目を伏せてしまうのではないか、という恐れも皆一様に抱いていた。或いはもし不意に、彼から一緒に食べようと誘われてしまった場合、自分はその誘いを断るべきか、否か。皆それぞれそういった思いを巡らせてはいたが、それを口に出す者はいなかった。笑顔で声を掛けてきた彼に対して、冷酷な視線を浴びせ、無視し、遠ざけるということが出来る自信は誰にもなかったし、不意に声を掛けられてしまったら、その途端に、満面の笑みを浮かべて、「いいよ。一緒に食べよう。」と口が動いてしまうのではないか、と皆同様に案じていた。
 受け入れ準備の整いつつある児童たちも、もしこの昼食休憩のうちに彼と打ち解けることができたなら、勉強が好きだと推測される彼から、このあと向かう予定のプラネタリウムで、星座や宇宙に纏わる面白い話を聞けるのではないか、という期待を持ちつつも、自分たちから声を掛ける気恥ずかしさには今のところ打ち勝てず、やはり受け入れ準備の未だ整っていない派同様、彼の動向を黙って窺っていた。
 そして、クラスメイトの視線を独占している彼自身の方は、それについて頓着する気も全くない様子で、芝生の上に弁当箱を広げると、いつのまにか寄ってきた犬(ラブラドールレトリバー)と向かい合って座り、何やら楽しそうに話しながら、母親特製のスコッチエッグを口に運んでいた。
 「飼い主さんへのお願い。ペットにはリードを付けましょう。」、と書かれた看板を指して、転校生は犬をからかっているようだった。犬は「参ったなあ。」と、うしろ足で頭を掻いてみせた。彼がそれを見て笑うと、犬も尻尾を振って応えた。


アンデパンダン展へむけて

 アーポンの夜に気をつかい、しばらく控えていました。やはりツイッター上でのネタばらしはよくないので、ブログ上での経過報告のスタイルがよいのではないかと思います。
 今回はさーくんがリーダーということで、どうなるでしょうね?あまり考えすぎずに楽しんでやりましょう。
 前回の反省点等も書いていきます。気掛りが多すぎて死にそうになるので随時、考えや段取りを書くことで準備の混乱を避けましょう。前回の反省点は、パソコンにメモやスケジュールを書いておかなかったことです。
 さて、私は美術とダンスでいきます。「トラウマへの共感から、『岡本太郎のいう芸術は爆発だ!』」をテーマにしようかな。アーポンのメンバーも、それぞれどんな感じでやりたいか考えてください。
                                                     るいす

アーポンの夜67

 車のヘッドライトをやり過ごしたあとの数秒間は、奥行きのない不透明な黒い膜が眼の前を覆ってしまい、立ち止まるしかなかった。そして、それまでと同じ景色を再び眼前に立ち上らせるためには、想像力と記憶の助けがどうしても必要だった。胸の前で広げてみた自分の掌の輪郭さえ曖昧で、足元を照らすには余りにも頼りなく、いつまでもその暗さに慣れることのない、朧な月の夜だった。いっそのこと眼を閉じてしまえば、すぐにでも歩き出せたのかもしれない。
 立ち止まっているあいだ、地面が小刻みに揺れているように感じた。地虫たちの鳴き声だった。
 遠くから、すぐ足元から、低く、高く、伸びやかに鳴り続ける虫の音が、湿り気を帯びた土の匂いと混じり合って、広い田園一帯の空気に透明感を与えている。
 畦道の両脇には細い排水路が設けられていて、足を踏み出す方向を注意深く選ばなくては、側溝の奥に誘い込まれるように、足を取られてしまいそうだった。暗がりの中で落とし穴にはまってみたところで、笑ってくれる人間は辺りにいそうもない。それに万が一、足でも挫いてしまおうものなら、胸の内にある淡い期待のうしろから、出掛けに上手く隠したはずの寂しさが、ひょっこりと顔を覗かせてしまうだろう。
 畦道の中心をひと筋に走る、雑草の連なりが頼りだった。それらが一体、どういった花をつけるかは知らない。或いは、小さな花の一輪すらつけることなく、朽ちてゆくのかもしれない。それでもたった今、ひとり暗がりを歩くノゾミにとっての、唯一の道標であることには変わりなかった。
 「もう一度、正面から車のヘッドライトが近づいてきたら、そのときはきっと上手に避けられないやろな。」ノゾミはそう思っていた。
 
 雨が降っていた。濡れても構わなかった。いつまでも待ち続けていたように思う。雨樋を伝う水の流れを憶えている。しかし、それはすべて夢の中での出来事だったと、ノゾミは知っている。夢から醒めると、母親の不在に気付いて、家を飛び出した。
  「ノゾミ、ほら。降りるぞ。」と言って、誰かが肩に手を置いた。それも夢だったかもしれない。地下鉄のプラットホームは油の匂いで満たされていた。普段ならば気にせずに済む程の匂いだったかもしれない。それでも吸い込む度に、その匂いの中に含まれる有害な成分が、体内に流れ込んで来るようで、息を吸うのを控えめにしたのだった。
 地上に出るまでのあいだ、水仙の花の芳しい香りを思い浮かべていた。

 濃黄の水仙の花弁を追って、ここまでやってきたのだった。スニーカーの紐をきつく結わえたのは、長く続く畦道を往くことを思ってではなかったか。
 地虫の声が耳にまとわりつく。徐々にもとの景色が、穏やかな輪郭線を取り戻し始める。部屋を飛び出して、見慣れた街の姿を見た。それから蔦の絡まる外壁とケヤキのあいだを抜けて、どのくらいの時間をかけて、ここに辿り着いたのだろう。
 おうちはもう壊れてしまったやろな、とノゾミは歩きながら考えていた。部屋を出て、一度だけ振り向いた。住居のかたち自体は、壊れていなかった。それでもきっと、持ち堪えられなかった。
 かたちのあるものはいづれ、風化して消え去るという。果たしてそれは本当なのか。かたちだけを半永久的に残しつつも、その実態の方はとうに消え去ってしまっている、ということだってあるのだろう。だとすれば、人の記憶は、そのどちらにあたるのだろうか。
 ノゾミの胃の中で、思い出したように小さな気泡の弾ける音がする。眼を開けると、やはり夜だった。
 数千の星々が目一杯に鏤められた夜空はリアリティーが希薄だったが、それが却って、眼の前の世界が現実であることを、ノゾミに報せているようだった。


アーポンの夜66

 大きな交差点を右に折れてから道なりに歩き続けた。「青山通り」とハカマダは言った。そのあとで「ニイヨンロク」、とも言った。
 緩やかな勾配を下った辺りで車道は二股に分かれた。ふたりはこれまで来た歩道の上をそのまま歩いて、二股に分かれた右の道を進んだ。
 更に緩やかな下り坂を降りると、「渋谷」があった。

 車両用の信号が赤に変わってから、歩行者用の信号が青に変わるまでに約六秒の間隔があった。しかし、その時間の長さよりもノゾミを驚かせたのは、すべての方向の歩行者用信号がその色を一斉に青に変えたということだった。斜交いを結ぶ、ふたつの横断歩道が真ん中で交差しているのを見たノゾミは戸惑う。一斉に青に変えてはいけないのではないか、何かの間違いではないか、と考えたのだ。初めて目にした渋谷の巨大な交差点では信号機も、ノゾミの知っているそれとは少しだけ、仕組みが違うらしかった。
 道を挟んで対峙していた大勢の人間が、同時に足を踏み出すのを見た。斜交いへ渡る人々も、四方からそれぞれの目的の岸へ、迷いなく突き進む。対面を目指す四つの人の流れは、横断歩道の交差する箇所でひとつの大きな塊になった。しかしすぐにその塊も柔らかく四方へほぐれてゆき、再び四つの人の流れに戻ったあとは皆、個人となって散っていった。
 横断歩道の上にはすでに、足を引き摺り歩くひとりの老婆の姿しかなく、ノゾミは青信号が点滅してしまわぬようにと祈るような心持ちで目をやっていたが、「こっちや」、と言うハカマダの声が聞こえると、すぐに呼ぶ声の方へ向き直り、その場を立ち去った。

 近未来を思わせる銀色の巨大な半球が、デパートの屋上に乗っていた。ドームを内側から仰ぎ見ると、外観にも増して大きく感じた。同心円状に配置された平床の座席のなかから、指定された席を見つけたノゾミは、リュックを脇に抱えたまま横になって天井を見上げた。
 これから約九千個の星々が投影されるのだと、ハカマダが隣から言う。ドーム内の中央に設置された、巨大な蟻のようなかたちをした、黒い機械を指差していた。
 上映時間まであと五分だと告げるアナウンスが聞こえる。ノゾミは上体を起こして、自販機で買ったコーラの缶を開けてしまおうか迷った。喉が渇いていたが、上映中に何かの弾みで、飲みかけの缶を倒してしまうかもしれなかったからだ。
 「こっちに置いといたらええ。」
 隣の席に並んで、横になったままのハカマダが言う。ノゾミはそれに小さく頷いてから、缶のプルタブを開けた。炭酸ガスの噴き出す音が、ざわめく周囲の空気をほんのいっときだけ静かにした。
 ノゾミは缶に入ったジュースを飲むのが得意ではなかった。自宅の冷蔵庫には一年を通して、母親の煮出した麦茶が入れられていたので、缶に入ったジュースを飲む機会には恵まれなかった。ニシダを交えて外出するときなどは、レストランでジュースを飲むこともあったが、それはグラスに注がれていて、ストローまで差されていた。
 躊躇いがちに唇を缶の口に押し付けてから、ゆっくりと傾けた。ハカマダがそれとなくその様子を窺っていることをノゾミは知っていたが、別に構わなかった。パチパチと弾けながら流れ込んでくる液体は舌と喉を痺れさせた。口の中には砂糖の甘さが広がり、不思議な、魅惑的な香りが鼻から抜けてゆく。それから同じようにして、ふた口だけ飲んでから、ハカマダに缶を手渡した。再び横になってからも、しばらくのあいだ、胃の中がピリピリするように感じた。
 ドーム内の照明がゆっくりと落とされてゆく。それに合わせて人々のざわめきも静かになってゆき、やがて何も見えなく、そして何も聞こえなくなった。

 夜が訪れた。
 柔らかく射し込む暖かい午後の光に誘われ、うとうとと微睡んでいるうちに、完全に意識が途絶えた。眼を開けたときは、すでに夜だった。
 部屋の電気を点けてから時計を見ると、すでに七時を回っていて、開け放した窓から吹き込む風が薄着一枚だけの肌に冷たかった。
 長くとり過ぎた午睡を母親に咎められるだろうか。窓を閉めてから部屋を出る。妹と共同で使う勉強部屋兼寝室を出ると、狭いダイニングとキッチンの明かりも消えていた。普段ならばパートを終えて帰った母親が、夕食を拵えているはずの時間だった。そしてそんな母親が投げかける、学校での出来事や友達に関する質問を、テレビ番組に夢中の妹が、適当に受け流しているはずの時間だった。
 以前にも同じようなことがあった。三年程前だったか、その日は宿題の途中で居眠りをした。ほんの一時間程度の眠りだった。眼を覚ますとやはり日は暮れていて、眼をこすりながら部屋を出ると、家の中には誰もいなかった。動顛こそしなかったが、ひとりきりの不安と寂しさを紛らわせるためにテレビを点けた。やりかけの宿題は放っておいて、テレビを眺めていた。見つめるブラウン管の中だけが、賑やかで日常的だったが、その他の視界に入るものは全て、非日常的に映った。他からは物音ひとつしなかった。無感情に、規則的に進む時計の針に合わせて、後悔と自責の念が強まっていった。居眠りをした自分がいけなかったのだ、と。
 あのときと同じように、妹のカナが突然高熱を出したとでもいうのか。だとすれば、テレビを点けて眺めているうちに電話のベルが鳴るだろう。もちろん母親からの電話だ。
 「ノゾミ?もう少し待っててね。カナが熱出しちゃって大変だったのよ。でももう大丈夫よ。今から帰ります。お腹空いてるわよね?もう少し待っててね。急いで帰ります。」
 家族の不在と、自分の居眠りとのあいだには一切の因果関係がないのだと、今回は初めから理解できた。不安や寂しさは湧いてこなかったし、空腹にはある程度なら耐えることもできた。ノゾミは、あの時ほど幼くはなかった。母親からの電話を待つ気は、もうなかった。
 部屋に戻って、お気に入りの紺色のトレーナーを被った。最後の迷いを振り切るように、スニーカーの紐をきつく結わえた。月明かりと星々に照らされたアスファルトが、細かいガラスの破片を鏤めたように輝いていた。

アーポンの夜65

 「あれが来たら持ち堪えられへんやろな。」
 歩き出して五分か十分が経った頃だった。やけにはっきりとした口調でハカマダがそう言った。しかし、そのあとを続ける言葉はなく、どう返事をしたものか困惑したノゾミは、黙って首を傾げてみせるしかなかった。口を半分開いたまま振り向きもしないハカマダが、そんなノゾミの仕草に気付くことはなく、気に留めることもなかったのだが。
 その視線は、大きな通りの脇の歩道に沿って続く、蔦の絡まった建物に向けられていた。同じような姿かたちをした三階建て程の高さの棟が幾つも並び、遠くまで続く古びた外壁の連なりが丁度、くすんだ一枚の壁を成すようにして、目蓋の上部の窪みを突く日射しの眩しさを、乳白色に和らげている。確かにその外観自体は時代ともそぐわない程度には古めかしく、年季の入った建造物であることはノゾミにも、見て取れた。それでも様々な趣向を凝らして装飾された扉にはそれぞれ、カフェやギャラリーなどの文字が並び、歩道を挟んだ向かいの、車道側をはしるケヤキ並木と相俟って、暖かみのある自然な雰囲気を演出していた。街の中心にありながら生活感すら漂うその様子は、ある種の異様な存在感を放ちつつもこの街並と絶妙に調和し、通りの空気に個性的な装いを与えているようにも感じた。
 自身の体験した地震のことを、「あれ」と言って見せるハカマダの口振りにだけ、ノゾミは不思議な共感を覚えた。しかしその共感が何処からやってくるものなのかは分からず、その先を接ぐ言葉はノゾミの口からも、ついに出てこなかった。

 ノゾミが母親と妹と三人で暮らしたアパートは老朽化の進んだ木造二階建ての市営住宅で、大地震には実際に持ち堪えられなかった。母親に手を引かれて妹と住宅に挟まれた通りに避難したあと、屋根のトタンがバラバラと落ちるのを見た。そして、地震が起きたときにノゾミが妹とふたりで寝ていた二階の床の約半分は、ベッドもろとも抜け落ちていたのだと、小学校の体育館に急遽設けられた避難所に辿り着く頃になって、母親の口から聞かされた。それでもあの日、母親に急き立てられて妹と避難所へ歩き出したノゾミがふと顧みた、遠ざかって小さくなった自宅の外観は、建築物としての様相をかろうじて保ちつつあったように記憶している。今になって考えてみれば、あの状況が「持ち堪えられなかった」ということになるのだろう、とノゾミは思う。少なくとも、自分のそれまで通りの生活が、あの日以来、そのかたちを著しく変えてしまったのだから。
 ノゾミが「被災地」という言葉を知ったのは、ハカマダに連れられて東京に来てからだった。ホテルのテレビ画面が映す「被災地」はどれも荒れ果てていた。人々の作り上げてきた、かたちあるものが瓦礫となって積もった、かつて「街」や「生活様式」だったものの残骸が、テレビ画面を灰色に埋め尽くしていた。そして、それを悲嘆する生活者たちの姿が、「被災者」として映されていた。
 ホテルで観たテレビの中には、ノゾミが家族と暮らした自宅の姿も、亜鉛が剥がれ落ちて錆付いた、トタンの見慣れた赤茶色もなかった。母親と妹の悲嘆する姿も映されなかった。最も被害を受けた場所は、ノゾミの生活圏内だった地域からは大分離れていたらしく、見覚えのある「街」の残骸は電波に乗らず、東京にまでは届いていない。「持ち堪えられなかった」にも関わらず、残骸になりきっていないが故に、未だお目にかかれないのかもしれなかった。だとすれば「持ち堪える」も「持ち堪えられなかった」も、結局は極めて個人的な事柄だったのだ、と思えてくる。
 きっとハカマダの言った「あれ」というのも、ホテルの一室のブラウン管越しにふたりで観た「揺れ」のことなのだろう、とノゾミは思う。地震の発生した時刻に、今こうして並んで歩いているハカマダという男が何処にいて、何をしていたのかをノゾミは知らない。どれ程離れた場所を生活圏内としていたのかも分からない。ハカマダの住居では確かに、幾度か寝食を共にした。しかし、その住居の置かれた地点と、かつて自分が家族と生活していた市営住宅の地点との関係を測るための座標を、ノゾミは持ち合わせていなかった。「あれ」というのは、それぞれの体験としての地震よりも、座標の上では測れない、わたしたちを繋ぐ関係のことなのかもしれない。本来ならこの視界にとらえることの出来ぬ、輪郭と輪郭の隙間に、まるで肉付けを施すかのように、ブラウン管の中の「被災地」と「被災者」を眺めたのだとしたら。或いは人の人生の数だけ「あれ」というものがあって、それぞれの「あれ」の主体同士の差異を確認することだけが、互いの存在を承認し得る術なのだとしたら。

 胡桃をすり潰した濃厚なつゆで蕎麦を啜った。胡桃の油のまろやかな甘みは思いのほかくどくなく、それに引き立てられた出汁の美味さに箸が進んだノゾミは、蒸籠に盛られた蕎麦をあっという間に平らげてしまい、「もっと食うか」、と訊くハカマダに頷いてみせ、結局蒸籠三段分の蕎麦をその小さな腹にすっかり収めてしまった。その間ハカマダの方は、天ぷらに塩をつけてつまみながら、一合だけ頼んだ日本酒をゆっくりと時間をかけて飲んだ。
 猪口を傾けながら度々、「美味そうだな」、と声を掛けてくるハカマダに対してノゾミは、「食べてみる?」、と出汁の入った椀を何度か差し出してみたが、ハカマダはそれに小さく頭を振って照れ臭そうに顔を赤らめるだけで、最後まで蕎麦を口にすることはなかった。
 ノゾミは当初、ハカマダに対してどちらかと言えばあまり好んで酒を飲む方の人間ではない、という印象を持っていたのだが、昨晩に一昨晩、そして今と、こうやって、ちびちびと少量の酒を舐めるようにゆっくりと口にしている姿を度々目にするうちに、殊更そういう訳でもなかったのかもしれない、と思い直すようになった。明け方と言うよりは夜中に近い時間帯に起床して、仕事に向かう生活を続けていては、晩酌する気にもならなかったのだろう。
 陽気とはいかないまでも、普段であれば仕事をしている時間帯にこうして気兼ねなく酒を飲めることはやはり嬉しいと見えて、頬を緩ませた柔らかな表情を浮かべたハカマダは、ノゾミの顔やてきぱきと働く従業員の動きを、黙ったまま楽しそうに眺めている。
 そんなハカマダの表情を見て、もしかしたら何か昔のことを思い出しているのかもしれないな、とノゾミが思ったのは、その顔付きがいつもより少しだけ、若く見えたからだ。


アーポンの夜64

 まもなく表参道に到着するという車内アナウンスを聞いたノゾミは、それまで肩を預けていた手摺りから離れ、左右どちらのドアが開くものかとハカマダの表情を窺った。その様子に気付いたハカマダが、まだや、次の明治神宮前で降りるんや、と小さく首を振って見せたのと同時に列車は徐々に速度を落とし始め、やがて停車した。
 列車が完全に停止するかしないかの際で右側のドアが一斉に開く。これから表参道を歩く、と聞かされていたノゾミは怪訝な顔をしたまま、列車からホームに降り立つ人々を眺めた。ノゾミたちの乗った車両からは四人が降り、すぐに五人が乗車してきた。ノゾミは合点の行かないままもう一度、閉じたドアの脇の手摺りに凭れて、列車が走りだすのを待った。
 窓の外は闇で、程ない距離のコンクリート塀を列車の明かりが仄かに照らしている。焦点をガラスに映る自分に合わせてみると、その姿が闇に浮かび上がる幽霊のようだと思う。いつにもまして自分の肌が白く、蒼褪めているようにさえ見えた。どうも今朝から気分がすぐれない。ホテルのベッドで目覚めたときから体が重いように感じていた。風邪でも引いたのかしら、とノゾミは思い、コンコン、と静かに喉奥で咳の真似事をしてみたが、そこに違和感はなかった。意識はしっかりしているが、ぬかるんだ足場を進むような、四肢のいまいち冴えない感覚もあり、眼を閉じると息苦しさが襲う気がする。
 気が付くと列車は再び走り出していて、緩やかなカーブを通過する度に凭れ掛かった手摺りがノゾミの肩に柔らかく食い込む。ノゾミの頭上に貼られた地下鉄の路線図をハカマダが背後から眺めている姿が窓ガラスに映り込んでいる。両手で吊革を掴んで、気の抜けた顔のまま列車に揺られるその姿が一昨日、動物園で観たばかりの猿みたいだとノゾミは思う。

 打ち放しのコンクリートに囲われた、天井のとても高い空間は、温かくも寒くもなかった。靴を履いていたように思う。だとすれば、天井が高かったのではなく、コンクリート塀がコの字に聳えていただけで、屋外だったのかもしれない。足元には瓦礫が転がっていたようにも思う。鉢植えの破片のような固さを靴底のゴム越しに踏んだ気がした。雨が地面を激しく叩く音に気付き、振り返ると眼の前を何千という雨粒の斜線が走っていた。そして大量の雨水が速さを増しながら雨樋を流れてゆくのを見た。錆付いた雨樋の接ぎ目の所々から零れ落ちる水の塊がスローモーションで落下し、地面に打ちつけられて破裂した。
 もうじきこの夢は醒めてしまう。ノゾミはそう知っていた。手元に傘はなかった。雨に濡れても構わないと思っていた。それなのに頭上からは薄暗い灰色の光が射し込むばかりで、雨粒はひと滴も落ちてこない。あと少し待てば晴れ間の覗くようにも思えたし、そうやって何時間も此処で待ち続けてきたようにも思えた。時間的な位置感覚はすでに失われていて、近い記憶を辿ることが出来ない。この雨はいつから降り続いているのだろう。音と映像のみの、幻想の雨。
 コンクリートに触れてみる。ノゾミの思った通り、皮膚を伝う冷たさも無骨な堅牢さもなかった。体温と壁面の温度のあいだで一切の交換は行われず、発砲スチロールに触れたようだった。それでも灰色の壁面の、部分によっては油の染みのような黒ずんだ滲みが見て取れ、時間の経過した痕跡はあるらしかった。

 「ノゾミ、ほら。降りるぞ。」
 ハカマダがノゾミの肩に手を置いて、急かすように言う。眼の前のドアは開いていた。降車した他の乗客は皆、すでに思い思いの方向へ歩き出していて、車内の天井の方からは「ドアが閉まります。」という車掌のアナウンスが聞こえ、ホームからはブザーの音が長く響いた。
 列車のドアが、ガスや空気の噴き出すような音をたてて閉じるのを遠くで聞いた。ハカマダに手を引かれて、列車からは無事に降りたらしい。しかし、綿の上を歩いているように地面がふわふわとしている。周囲の空気が様々な方向に動き回っているのを匂いで感じた。眼は確かに開いているはずなのに、薄いベールの一枚かかったような靄が視界を覆い、視覚よりも嗅覚の方が鋭敏になっているように思う。油の匂いが鼻腔を撫でた。サラダ油とは違う、列車の裏側の、腹の部分の精密な機械たちの駆動を潤滑にするために注された油の匂い。潤滑油と、乾いた土や埃の混じり合った匂いだ。
 ハカマダと取留めのない会話を幾つか交わしながら歩く。ノゾミは自分がどう受け答えしていたのか分からなかったが、会話にもコンクリートの地面にも躓いてはいないようで少しだけほっとする。徐々に太陽の暖かみを含むアスファルトと車の排気ガスの匂いが増してくる。相変わらず地面はふわふわと柔らかくて、階段を上りきってしまってから、危なっかしくなかったかしら、とノゾミは思った。或いはエスカレーターを使ったのかもしれず、改札をくぐり、地上に立ってからやっと視界がクリアになった気がした。正面には地上を走る電車の改札があり、右手には道幅の広い道路と交差点、そしてそれを枝分かれしながら各方向に大きく跨ぐ歩道橋がある。その先には、ノゾミの見慣れた京都の市街地とも印象の異なる、様々な商店の入ったビルが統一感なく建ち並んでいて、どの店頭も大きなショーウィンドウを構え、洒落た格好をしたマネキンや、高級そうな靴やバッグが並べられていた。
  東京に来てから訪ねた街の中でも、とりわけ若い人の姿が目に付くように思う。スーツを着たサラリーマン風の中高年の姿はあまり見当たらず、男女問わず皆、自分の好きな装いに、思い思いの帽子や派手やかな装飾品を身に付けていて自由な印象を受ける。建造物は少なくないものの、空の抜けるような広々とした空間を感じさせるのは、天気の良さだけでなく、人々の醸し出す堅苦しくない自由な雰囲気によるのかもしれない。都会の雑多な人通りと喧騒もありつつ、午後の広場や公園にも似た長閑な空気も漂っていた。
 信号が変わるのを待ってから、横断歩道を渡った。向こう岸に近づくに従って、ぬかるみに足を取られるような感覚は消えてゆき、渡り切る頃にはアスファルトの固さを踏みしめていた。雨の降り注ぐ瓦礫や油の染みたコンクリート塀の風景も綺麗に消え去ってしまったが、夜になればきっと、またあの場所で待つことになるのだろうな、とノゾミは心の内で思った。


アーポンの夜63

 夜の明けきらぬうちに目が覚めた。普段ならば寝返りをひとつうって、照明台の上に置いた目覚まし時計がけたたましく鳴り出してしまわぬうちにと、慌てて先回りするように手を伸ばすところだが、どうやら今朝は勝手が違うらしい。
 枕を覆うカバーの肌触りがいまいち馴染まないように思う。頬に当たる具合が妙にごわついていて、使い慣れたものとはやはり違う。綺麗に洗濯されて清潔なようなのに洗剤の匂いのしないのはどういう訳だろうか。そう思ったところで、昨晩までの記憶と緩やかに繋がった。ハカマダは毛布に包まったまま、隣のベッドで眠る少女を眺める。夢の醒め際で判然としない額の裏側に少女の滑らかな肌の映像が甦る。
 どんな夢で目を覚ましたものか、すでに思い出せない。昨夜、汚れた掌をシーツの端で乱暴に拭ったあと水道で流した。指先の刺すような冷たさが全身に回り、身震いしながらベッドに潜ったのだったが、そのあとはどうしたのだったか。いや、そうではなく、火照った体に心地好いだるさを抱えていつまでも、はあはあと息をしたまま眠れずにいたようにも思う。もしくはかつての恋人と幼い少女の肌を交互に思い、胸を締めつけられるようにして間断的に呻き声を上げたのかもしれない。
 目蓋を一度しっかり開いてしまうと再度眠りにつくのは難しかった。最近では週に二度の休日もこうだった。前日に目覚ましを解除して布団に入るも、ようやく外の空の白んでくるかこないかのうちに自然と目が開く。今日の仕事は休みか、と仄かに気付きだした頃には目が冴え、俄かに布団から這い出ている。そして、これといってすることも見つからず、洗面台に立って顔を洗う。
 しかし今朝に限っては洗面台に立つ気にならなかった。顔を洗い流してしまうと同時に、脳裡に明滅する断片的な映像や甘美な感覚も洗い流してしまいそうだからだ。ハカマダは自ら進んでうつらとすべく、そっと目を閉じる。深い眠りは必要とせず、ただ眠気に朦朧とする意識を模して、ときおり湧きあがる懐かしいような、甘い感覚をじっと待つことにした。

 目を閉じてからどのくらい経っただろうか。おはよう、と聞こえたのはノゾミの声で、本人はまだベッドの上にいるようだった。妄想の中の少女は喋らなかったので、その声は思いもよらず現実的に、ビビッドに、ハカマダの鼓膜を揺らした。声のする方に顔を向け、おはよう、とだけ返すと俄かに視線を天井に移した。ノゾミの声に開けた目蓋は軽かった。それでも窓の外から射し込む光がこんなにも明るく、室内の壁に反射してなお網膜を激しく刺激することから、気付かぬうちに眠りに落ちていたのかもしれないな、と思った。
 ハカマダはベッドから降り立ち、窓辺に立つ。デジタルの時計はすでに八時を回っていて、そうすると三時間も四時間も妄想に耽っていたとは考え難く、やはり自分の知らぬうちに眠っていたのだと改めて確信する。外は晴れ渡って、この部屋から眺める限り外の景色に寒々しさは漂っていない。それでも高層ビル群を照らす日射しはやはり穏やかな冬のものだった。背後をペタペタとノゾミが通り過ぎてゆく。ノゾミが歩く度に、若干サイズの大きいスリッパが絨毯を優しく叩く音が微笑ましく、洗面所に向かう彼女のあとを追った。
 「今日はプラネタリウム行くのよね。」ノゾミがタオルを顔に押し付けながら言う。「わたしプラネタリウム行ったことないの。楽しい?」
 「ああ、五島プラネタリウムや。東急文化会館。俺も一度しか行ったことないんや。おもろいとええな。」ハカマダも顔をがさつに拭きながら答える。
 「渋谷って遠いん?」ノゾミは洗面台の鏡越しにハカマダを見て訊く。
 「遠くないよ。近い。乗り換えは一回やけど、原宿から歩いてもええ。どうする?」ハカマダはノゾミの視線に気付いてうろたえそうになったが、記憶の中の裸体が朝日に晒されて消え去ってしまった今、殊更疾しく思うことなどないのだと自分に言い聞かせる。
 「歩くのは苦にならないわ。外はお天気だし。」

 東京に来て以来、何処へ行くにも地下鉄の赤坂駅を利用している。切符売り場と改札の光景も見慣れてきて、列車がホームに侵入してくる際に起こる風にも、顔を背けずに正面から当たりにいけば髪の毛が乱れずに済むと昨日になってようやく気付いた。明日で京都に帰るだと思うと、ハカマダの胸に自然と寂しさが起こった。かつて荷物をまとめて東京を発った無念と、知らずのうちに重ねてしまっているのかもしれなかった。
 ノゾミの手を引いて乗り込んだ車内は混雑のピークを終えていて、幾らか閑散とした向きさえ感じられた。車輪の軋む音と間断的なアナウンスの他は物静かで、ふたりは黙ったまま乗車したドアの隅にもたれかかり、列車の揺れに身を任せた。窓の外の闇をオレンジの明かりだけが断続的に高速で流れてゆく。


アーポンの夜62

 毛布を剥ぎ取られても表情ひとつ変えず、安らかな眠りについたままのノゾミは今も膝を抱えて丸まっている。その小さく柔らかい生命の温度がハカマダの寄せた頬に伝って来る。そして湿り気を帯びた温かさは芳しい香りを放つ。
 こちらに顔を向けて横たわるノゾミの胸元を凝視してみるが、抱えた膝のせいでその部分の幼い膨らみは判然としない。ハカマダはどうにかその姿勢をもう少し自由の利くようにしたいと思い、一瞬間考えを巡らせたが、今は迷っている場合ではないのだ、と自分を奮い立たせ、ノゾミの両肩を掴んで無理やり仰向けにした。ベッドの上のノゾミの体は、ハカマダが想定していたよりも遥かに軽く、勢い余って反対側を向いてしまってから弾むように跳ね返って、もう一度真上を向くとぴたりと止まった。
 次の瞬間、少し乱暴すぎたか、と恐怖心が生じて両腕の内側に鳥肌がたった。ノゾミが目を開けると思い、神経の痺れる感覚を堪え、平静を装った。自然な振る舞いができるよう胸の内で構え、じっと待った。しかし、ノゾミは相変わらず安らかに目を閉じたままで、穏やかな寝息を立てている。姿勢が変わったせいか、寝息のトーンが少し低くなっただけだった。ノゾミの体が仰向けになると同時に、抱えていた膝も自然に伸びて、完全に無防備な状態になった。それはハカマダの望んだ理想の姿勢だった。
 ノゾミの着た室内着は襟首のゆったりとしたパジャマのようなもので、前を六つのボタンで留められている。両胸にはボタン付きのポケットがあり、向かって右のポケットの口に、このホテルの名前の刺繍が施されている。生地は薄手の綿だったが、暖房の良く効いた、加湿器まで備え付けてあるこの部屋のなかで毛布を掛けていては、反対に暑いくらいだろうとさえ思えた。
 ハカマダは静かに横たわる少女を改めてじっくりと見た。昼のあいだは、ついつい素気ない態度を取ってしまう、と自分でも感じていた。ノゾミと視線が合うだけで、年甲斐もなくどぎまぎしてうろたえてしまいそうになるからだ。どうしても他の子供たちに接するように、慈愛に満ちた自然な笑顔を向けることが出来ない。事に依ると、あの不快な子供たちの匂いが、自分を律させていたのかもしれないな、とハカマダは思う。
 ベッドの脇に膝を付いてノゾミの襟元のボタンに指を掛けた。俺はいけないことをしようとしてるんやな、だとすればあの、幼い冬の夜と同じように俺の手は震えるだろうか、そんな問いがぼんやりと浮かんだ。ボタンに指を掛けたままノゾミの寝顔をちらと窺ってみるが、変化はない。
 はじめからきっと、こうしたかったんや。だから仕方がない、とでもいう風にハカマダはひとり頷いて、薄手の綿に覆われたふたつの膨らみをまじまじと見つめた。膨らみと言うには儚過ぎる、萌芽の痛み易さを思わせる少女の乳房に心を奪われる。そしてその視線を再び自分の手元に戻すと、ボタンに掛けた指先に震えはなかった。全くもって思い通り、精緻に動くであろう指先の感覚が、ハカマダの最後の迷いを払拭した。少女の表情を窺うこともやめて、素早く襟元のボタンを外し始めていた。
 そして最後のボタンを外しきってしまうまでには、十秒とかからなかった。着衣の合わせ目は閉じていて、少女の肌は露わになっていない。ハカマダは徐に立ち上がる。少女の枕元のスイッチに手を伸ばして部屋の照明を落とすと、スタンドのぼんやりした明かりがノゾミの仄白い寝顔を却って浮かびあがらせた。栗色の髪の生え際に滲んだ微細な汗の粒がきらきらと光った。顎の下から喉仏の辺りまでの一面が金色の産毛で覆われているのも、昼のあいだの明るい屋外では気付かずにいたことだった。細く柔らかな産毛は結構な密度で生えていて、それを覗き見られている少女の恥じらいを想像するとエロティックに思えた。
 とうとう少女の着衣の合わさった部分を開く。薄い生地に手応えはなく、雑誌の頁を捲るように簡単にはだけた。
 露わになった少女の上体は枕元から暖色の明かりに照らされ、肉感的な陰影を落としていた。影の最も濃い部分が稜線を描き、乳房のわずかな隆起を際立たせる。そしてはじめに視線を奪われたのは、ふたつの柔らかな膨らみの先端にある小さな突起で、恥じらいに頬を染めるように淡く紅がさしている。その石竹色の蕾は見るからに繊細で穏やかに尖り、眠りについたままの少女の意志とは無関係にハカマダの情欲を挑発した。幼い裸体の醸す色気にハカマダは思わず息を飲んだ。
 次に目が行ったのはふたつの乳房の合い間の平坦な場所だ。ここにも金色の産毛が比較的びっしりと生え、寝汗でじっとりと肌に張り付いている。しかし汗の蒸れた不快な匂いはなく、さらさらとした甘く芳しい香りを放っている。
 少女の肌に触れたいという衝動が津波のように押し寄せ、ハカマダを惑わせた。少女の幼い乳房を優しく掌で包み、繊細で敏感な蕾を舌先で味わいたい。汗ばんで湿り気を帯びた乳房の谷間に顔を思う存分埋めたい。そう強く思う。
 ハカマダは自分の鼻先が少女の肌に触れてしまわぬよう細心の注意を払いながら、尚且つ果敢に胸元の寸前にまで顔を寄せた。目を閉じて鼻からゆっくりと息を吸い込むと、少女の香りが胸の中に舞い込んだ。石鹸の香りと相俟って判然としなかったが、普段とは違う何処か性的な匂いを孕んでいるようにも感じ、ハカマダは意外に思った。それでも変わらずその匂いは胸をときめかせ、陶酔させた。
 すると突如、ハカマダは下腹部に疼きを憶えた。まさか、と着衣の上から弄ってみると、固く膨張した部分が鎌首をもたげ、辺りの生地を窮屈そうに吊り上げていた。

アーポンの夜61

 我が子を慈しむさっきまでの優しい母親が突如、その姿を悍しい悪魔のそれに変え、布団に包まる息子を殺しに来る。
 そんな妄想は深更に及び、母親の方が先に眠りにつくようにと祈るような心持ちで息を潜めた。襖の奥のわずかな寝息を確かに聞き取ってからやおら布団から這い出し、その寝顔が紛れもなく母親のものであると確認せねばと忍び足で畳を踏んだ。永遠とも思える長い夜だった。
 襖に掛けた自分の手の小さな震えに脅える。汗の滴がこめかみをつたい、寝巻の下で汗ばんだ背を冬の冷気が撫でる。ああ、僕はいけないことをしているのだ。疚しさが少年の胸に重苦しく伸し掛かる。
 ハカマダの幼い頃の記憶だった。どうしてそれが思い出されるのかは分からない。ただ、あんなにも長い夜はそれ以来自分にやって来なかったようにハカマダは思う。コトコと過ごした夜も長かったが、眠ってしまえば明日が来ると確信していた分、短く感じられたのかもしれない。感傷よりも恐怖の方が夜を長くするのだろう。あの夜の今はどうなったのだろうか、と考えるのは地震の起こる前に施設の子供たちと観た猫型ロボットのアニメの映画の影響か。自分の記憶が自分のものでないようにも思える。あの夜が未だ開けぬまま、何処かに存在しているのではないかと。
 シャワーを浴びながら目を閉じるとこうも考えた。
 その部屋に足を踏み入れた途端、粗くなった肌の肌理は艶やかな少年のものにまで密度を取り戻し、衰退していた各器官の機能は完全に復旧し活力が漲る。やがて目に映る風景や人物の、彩りや陰影の微妙な移り変わりまで見て取れるほど感性が鋭敏になる。たちまち自分が若返ってゆき、生々し過ぎる感傷と、そのなかに含まれる一抹の快楽や陶酔を知らず知らずのうちに求めている。次第に、ああ、生きているのだな、と実感する。そんな話はないだろうか。
 或いは、いつだったか幼いころの寒々しい冬の朝まだきに目にした、朝露に濡れる名も知らぬ花から立ち上る青の匂いから、自分がたったいま呼吸しているのだと冷たい胸の内に痛切に響く。鼻の粘膜や、肺の裏側の襞に残ったわずかな青の粒子が時を経て、いつのまにか花を咲かせ、自分が死んだあとになって、その墓標の脇に息づく。そんな話はないだろうか。
 やけにじめじめした気分になるのは、もう何日と降らぬ雨を恋しがっているからか、と大雑把に拭いた体にタオル地の室内着を羽織って洗面所の鏡に自分の姿を映す。目尻に刻まれた皺のつくる陰影が濃い。
 あの夜、少年が恐る恐る開けた襖の奥に目にしたものは何だっただろうか。そんな想念が靄のように残る。

 ハカマダが部屋に戻ると、ノゾミが胎児のように膝を抱える格好で穏やかに眠っていた。
 ノゾミの寝顔を見ると、日常は不確かなものやな、とつくづく思う。同時に全部が嘘のようにも感じる。大地震も少女との東京旅行も、男として不能になってしまったことも。
 前兆はあった。妻のアカリが他の男に渡ったのがきっとそうだった。そして、ある明け方に未曾有の大地震が起こり、ハカマダは不全になった。しかし、どちらの出来事もハカマダにとっては、これといって哀しくもなかった。ことによると不全になってしまった今だから、現実的な喪失感を伴わないのかもしれない。だとすれば、偉く大事なものを失くしてしまったらしい。
 十数年振りに会ったコトコは相変わらず美人だった。自分だけがめっきり歳を重ねてしまったようで虚しさが込み上げた。コトコをもう一度抱きたいと今になって強く思う。
 男としての機能も衰退し、妻も出て行った。自分の顔に深く刻まれた皺に思いを寄せる人間も、この世界にたったひとり、自分しかいないのだと思うとやりきれない。
 絹のような艶を纏ったノゾミの栗毛から漂う芳香に吸い寄せられてハカマダは枕元に顔を寄せてみた。すると最初にノゾミに抱いた違和感を思い出した。それは匂いだった。施設で暮らす子供たちが一様に纏った、ハカマダの嫌うあの匂いと、ノゾミの匂いは違っていた。
 施設で暮らす子供たちからはいつも甘い、菓子や飴の匂いがする。もちろん子供たちが好きな菓子や飴を口にした直後だった場合もあるだろう。しかし、いつでもあの籠った、鼻腔に詰まるような甘い匂いがするのだ。ハカマダはその匂いに憶えがあった。まだ幼い頃だった。おいでよ、と言われて仲良くもなかったはずの友人の屋敷に躊躇いがちに上がり込んだときに嗅いだ匂いだ。この粘つく甘い匂いに噎せ返って、早く自分の家に帰りたいと、うっすら涙が滲んだ。自分の母親が急に恋しくなった。友人の屋敷で嗅いだ匂いが何の匂いかは今でも分からない。もしかしたらあれは、あのときの友人に年少の弟だか妹だかがいて、それから立ち上る子供の匂いだったのかもしれない。或いは、その友人自身が纏った匂いだったとも考えられる。
 今でも施設の子供たちから漂うその匂いを嗅ぐと、その友人の陰気で無愛想な母親の顔まで脳裡に浮かび上がる。友人の母親はあのとき、障子の奥の暗い部屋でいつまでもぼそぼそと何か言っていたようにも思う。幼いハカマダはその呪詛とも聞こえる陰鬱な声に足がすくみ、自分の家に駆け出すことも出来ずに、へらへらと力の抜けた笑いを浮かべたのだった。
 施設内で、子供たちのどれを抱き上げて遊んでやっても、セーターやトレーナーから漂うのは決まってあの匂いだった。そのうちに施設内の廊下を歩いても、花壇に植えられた花々を観ても、飴のように粘る甘ったるい匂いが鼻腔の奥から離れなくなった。幾度かその匂いを嗅ぐまいと息を止めてみたこともあったが、胸の内に染み付いたその匂いが体内に充満して噎せ返るだけだった。子供たちから甘い匂いがするんや、とハカマダはシロタに一度だけ話したことがあった。しかしそのときシロタは怪訝な顔をしたきり何も言わなかった。
 ハカマダは子供たちの菓子や飴の匂いが自分の体に染み付いてゆくのを恐れて、毎晩風呂場で念入りに皮膚を擦るようになった。当然、寝室の枕からも毛布からもその匂いが立ち上り、いつのまにか妻を抱けなくなっていた。妻を抱こうとする度に、あの呪詛が聞こえてくるようで、そういった気分はすぐに冷めてしまった。それでも機能が停止したわけではなく、一週間に一度は下腹部に疼きを覚える夜があった。年明けの地震が起こる前までは。
 ノゾミから漂うのも甘い香りだった。しかし、飴のように粘つく甘さではなく、胸の奥をくすぐるような爽やかな香りだった。ノゾミの振り撒く芳香は、ハカマダの鼻腔にこびりついたあの飴のような匂いを一瞬にして消した。初めにノゾミに近寄ったときもそうだった。心が綺麗に洗われるようにも思えた。次にこの少女を抱きたい、と欲情した。この少女を裸にして、その柔らかな肌に顔を埋めたい、と強く思った。そしてハカマダは今、静かな愛らしい寝息を立てているこの少女に顔を寄せてみて、この香りがこの艶めく栗毛から漂ってくるものとばかり思っていたがどうやら違っていたらしい、と気付いた。
 この匂いは、うっすらと寝汗で濡れる、白く柔らかい少女の胸元から漂っているのだ。
 ノゾミ、と耳元で囁いてみるが眠りは深いようで、少しも反応を示さない。ハカマダはゆっくりとノゾミの体を覆う毛布を剥ぎ取る。ホテルの室内着を着たノゾミが目を閉じて膝を抱えている。静かな寝息に合わせて小さな胸が膨らんでいる。


アーポンの夜60

 外から窓を叩く者の存在は、その時点ではまだノゾミのことを、ほんの少しも不安にはさせなかった。穏やかに語りかけるように淡々と鳴るノックの音は、ノゾミたちを急き立てる風ではなく、「お久しぶりです。お元気ですか?」と、あらかじめ互いに了解済みのやりとりを、壁越しに始めようとしているような安心感があった。
 いつのまにか日は落ちていたらしく、この部屋の雨戸だけは最初から閉じられていなかったのだと、音のする方へ目をやって初めて気付いた。室内の蛍光灯の輝きの方が、カーテンを透過して射し込む夕陽の明るさに勝っていたのだ。
 ノゾミは直感していた。これは変わり者と言われるミクの兄の仕業だ、と。
 そして次の瞬間、ノゾミの脳裡に鮮明に浮かんだのは、自分が吸い寄せられるようにして窓辺に駆け寄ってゆき、カーテンを目一杯開けて、未だ見ぬミクの兄と窓ガラス越しに対面する場面だった。
 すると突如、ノゾミの胸はその鼓動を平常時の倍程にまで速め、同時に指先や首筋の表面を甘い脱力感が襲った。髪の毛が逆立って、全身の毛穴が一斉に収縮するようにも感じられた。しかし、窓を挟んですぐ正面の、とても近い距離にいるはずの彼の表情は、ノゾミが細部まで眺めようとすればするほど、ピントのずれた写真のようにぼやけてしまう。窓越しの彼は一輪の花を手にしていて、その黄色い花弁から漂う甘い香りが、透明なガラスの粒子のあいだを擦り抜けて、ノゾミの頭蓋に立ち込める。むせるような濃い蜜の香りが、心地好い息苦しさを生む。
 柔らかな痛みを伴う胸の高鳴りは、見知らぬ人々に注視されたまま食事をするような緊張感にも似ていたが、やはりそれとも何かが違うように思えた。いびつなリズムを刻んでいる自分の心音が鼓膜にまで渡り、耳元でがさつくように聞こえた。そのうちにその正体の分からぬ感情と感覚は、胸の奥でみるみるうちに膨張してゆき、やがてノゾミの身体ごと風船のように膨らませていた。
 上手に息を吸い込むことも出来ない。声を出せば上擦ってしまいそうで、喉の奥で唾を飲み込むのがやっとだった。
 ――トントン、トントン、――
 ミクの部屋がぐるぐると回っている。わたしが部屋の中心で回転しているのかしら。ノゾミが目を閉じて耳を澄ますと、ノックの音は未だに続いていて、彼の曖昧な輪郭線が波打つようにうねる。
 ――トントン、トントン、――
 ミクちゃん、早くそこから降りてきて、カーテンを開けて。彼が呼んでいるわ。わたし今、何をどうするべきなのかがちっとも理解出来ないの。手と脚をどうやって動かせば立ち上がれるのか、窓の向かって歩き出せるのか、それが分からないの。
 ――トントン、トントン、――
 ミクちゃんってば、どうしてそんな呆れたような顔をしているの?早く…。ほら、そこから降りてきて、今すぐ彼のことを呼びとめて!
 ――トントン、トン、――
 ノゾミは立ち上がるためにカーペットに手を突こうとした。しかしノゾミの身体は風船になって宙に浮いたままで、手を下に伸ばしても地面には届かなかった。空中で水掻きをしているように手応えがなかった。
 窓の向こうで彼が何かを言っているわ。それなのに声が聞こえない。ああ、黄色い花の香りはここまで届いているのに…。ノゾミはカーテンの向こうの彼の口元を凝視する。唇の動きに、想像し得る言葉を幾つか当てはめてみるが、慌て過ぎているせいか、どれもしっくりこない。
 「       」と、彼が言っている。
 ああ、あなたの声を聞かせて。そこからいなくならないで。もう少しでそこに行くわ。
 「       」彼は同じ言葉を繰り返している。
 どうしてあなたのいる窓辺に辿り着けないの?わたしは立ち上がろうとしてるの。
 ――トントン、――
 もう行ってしまうの?ここはあなたの部屋でしょう?
 ――――
 
 「……みたい。」 
 ミクが何かを言っている。ノゾミの身体は徐々に凋んでゆき、気が付けば手と尻に密着した床の感触が戻っていた。
 「お兄ちゃんたら、ああやってミクのこと驚かそうとするのよ。こっちは真面目に宿題してるのに。ほんと馬鹿みたい。」
 ノゾミが顔を上げると、ミクは元の椅子に座って机に向かっていた。鉛筆を薬指と中指のあいだでくるくると器用に回転させているのは、宿題に集中しているということなのか、もしくは、単調に並んだ数式に飽きてきたというサインか。
 カーペットの手触りも元のままだった。ノゾミはその手触りを確認すると、飛び跳ねるように立ち上がり、窓辺に向かって駆け、威勢よくカーテンを開け放った。
 窓の外には一面、収穫を終えた平坦な田畑が何処までも広がっていた。夕闇は濃く、畦道を照らす外灯のようなものはなかったが、遠方に少年の後ろ姿がふたつ、幽かに浮かんでいた。
 自分の身に何が起きたのか、ノゾミには理解が出来なかった。窓を叩く音に気付いたときまでは、穏やかな心持ちだったはずだ。しかし、窓越しのミクの兄との対面が勝手に想像された途端、何かがおかしくなってしまった。心と身体が誤作動を起こしてしまった。
 同じくらいの背格好をした男の子の後ろ姿が、ふたつ並んで遠ざかってゆく。誤作動を引き起こさせた少年が、並んで歩くふたりの男の子のうちのどちらなのか、ノゾミには分かっていた。
 畦道の遥か遠くをゆくふたりのうちの右側の男の子が手に握っていたのは一輪の花だった。長方形の闇の中に霞んで輝くその花は濃黄の水仙だった。

 結局ミクの兄は帰って来なかった。コトコは特に心配する様子も見せず、引っ越して来たばかりだから歩き回ってるのよきっと、と笑っていた。
 コトコとミクに見送られて細い道を抜けると、コトコに呼んでおいて貰ったタクシーが停車していた。
 「じゃあ、元気で。」ハカマダはタクシーの後部座席のドアが開いてから振り返り、早口で言った。この家を訪ねたときと同じような緊張した面持ちに戻って、照れ臭そうな様子だった。ノゾミはタクシーのドアが変な勢いで開くのを見て、背後から肩を叩かれてびっくりする温厚な動物の動きを思い浮かべた。
 「また連絡するわ。ノゾミちゃんも元気でね。今度はミクを連れて京都観光にでも行くわ。」コトコはそう言って、タクシーに乗り込むふたりに手を振った。ミクの方は脇に算数のノートを抱えながら寂しそうな顔で突っ立っていた。来たときとは別の、人当たりの良さそうな中年の運転手は、無言のまま背後の気配に意識を集中させて、別れの場をより良く演出すべく、発車のタイミングを図っていた。
 窓越しに最後の別れを告げたあと、絶妙なタイミングで走り出したタクシーのバックシートから、徒労と知りつつも身を乗り出すようにして探したのは当然、変わり者と言われる少年の姿だった。しかし案の定、窓の外の暗さに目が慣れてくる頃には坂道を下り終えていて、少年の姿を見つけられぬまま、まもなく駅前の小ぢんまりとしたロータリーに到着した。
 変な勢いでドアが開いて、タクシーを降りると、帰宅を急ぐサラリーマンたちがぞろぞろと改札から出てくるところだった。昼間のうちは余り人気のない街に思えたが、それでもここで暮らす人は想像していたよりもずっとたくさんいるのだな、とノゾミは思った。
 それとは反対に、都心に向かうふたりの乗り込んだ車両には他の乗客の姿は殆ど見当たらず、閑散とした座席にゆったりと並んで腰掛けた。互いがそれぞれの思いに耽るように、黙っている時間の方が多かった。
  地下鉄に乗り換えてまた人混みに紛れた。不思議と人混みに東京の安らぎを感じた。車内のスーツやワイシャツから漂う汗の蒸れた匂いには懐かしさすら覚えた。赤坂に戻って見慣れた景色が視界に入ると、旅行先から帰宅するような心地好い披露感が押し寄せた。旅行先の東京に郷愁を感じる不思議な感覚がノゾミは可笑しくて、ひとり微笑んだ。

 一旦部屋に戻って荷物を置いてから、ホテル内のレストランに向かった。ノゾミは部屋のベッドにリュックサックを下ろしながらふと、チョコレートの包みはこの中に入れて行けば良かったな、と今更ながら思った。
 エレベーターを降りると、礼儀正しいウェイターのいたレストランの向かいにある、和食の店に入った。そこで牛肉の山椒煮と豚ロースの味噌焼きを食べ終えて満腹になったノゾミは、ハカマダが日本酒を飲みながら突いている白子を見て気味悪がった。それに気付いたハカマダがにやけ顔で、ひとつ食べてみるか、と訊いてきたがノゾミは首を横に振ってみせた。うまいのになあ、とうけくちで独り言ちながら猪口を傾けるハカマダが寂しそうで可愛らしいとノゾミは思う。
 
 「明後日の朝、帰るぞ。明日はプラネタリウムでも行こか。渋谷やな。」食事を済ませて再び部屋に戻るなり、ハカマダが言った。「代官山も行こか。原宿も。同潤会アパートもセントラルアパートもきっと取り壊しや。ゆりかもめは今度来るときには走ってるやろな。ガーデンプレイスも見てみたかったな。」
 ノゾミは知らない言葉ばかりが出てきて返答に困っていたが、プラネタリウムには興味が湧いた。しかしノゾミの返事を待たずにハカマダは続けた。
 「変わるなあ、東京は。ノゾミが大人になった頃にはどうなってるんやろな。」

 やっぱり旅先は疲れるもんやな。ハカマダは、ベッドの上でうつらとするノゾミを励ますようにしてどうにか風呂に入れた。その後も、風呂場で寝てしまわぬように五分に一度は浴室に向かって声を掛けた。そして昨日、一昨日と同じように、風呂から上がったノゾミの、洗いたての髪と肌理の細かい白い肌にどきりとした。
 ノゾミは眠気にふらつく足取りでハカマダの前を横切ると、そのままベッドに傾れ込んだ。寝息にも聞こえるほど小さな声で、おやすみなさい、とだけ言うと静かになった。夢うつつとも分からない朦朧とする意識の中で、ノゾミはひとつだけ確信していた。今夜もう一度、あの少年と会える、と。


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